歌詞の肉体性ということ

平田オリザ著「演劇入門」を再読している。その中で、戯曲と小説や映画の違いについて書いてあるところがあり、素人からは似たように思えるこれらの芸術形式も、全く違うものだなあと納得させられるものがあった。

言語を用いるという点で共通する戯曲と歌詞の表現形式の違いについては、この本では残念ながら言及されていないが、ZARDファン、何より坂井泉水さんの詩のファンである私としては、どうしてもその切り口から読んでしまう。

歌詞と戯曲(台詞)は何が本質的に違うのか、ということだ。機会があればこの本のことも書いてみたいが、とりあえず今日は歌詞というものの特徴について、思いついたことを簡単にメモしておく。

演劇入門 (講談社現代新書)

演劇入門 (講談社現代新書)

前フリがやけに長くなってしまったが、実に単純なことで、それは歌詞というものが「歌われることを前提とした表現形式」であるということだ。

著者は、だんだんと状況が分っていくという展開を辿る小説や映画とは逆に、戯曲では「何についての」作品なのかをできるだけ早いうちに観客に提示し、観客の想像力を方向付けていくことが重要だという。しかし、歌詞ではどちらも当てはまらないだろう。同じ小説や映画、演劇を何十回見るというのは、それほど当たり前ではない。しかし、同じ人が何度も同じ歌を繰り返して歌うのは珍しいことではない。それで飽きがこないのはなぜか。考えてみれば不思議である。

歌を聴くとき、声に出さなくても頭の中で歌っていることはよくあることである。自分が想像上の主人公になって歌っているのだ。戯曲や映画でも主人公になってハラハラ・ドキドキすることはあるけれど、自分で歌うというのは肉体性を伴ったもっと直接的な経験である。

それは歌詞と詩歌の違いを考えるとはっきりする。昔は詩歌は詠まれるもので肉体性を伴っていたが、「鑑賞」の対象になって肉体性を喪失していった。歌われない詩歌を何十回も読むのは、今では研究者くらいになってしまった。

歌うことによる共感とカタルシスというのは、おそらく戯曲や映画、さらに詩歌にすら無い肉体性に基づいた歌詞特有の現象で、それが同じ歌を何十回歌っても飽きがこない理由であり、歌の本質ではないかと思うのである。