言葉

最近、色々な雑誌に坂井泉水さんのインタビュー記事が載っている。それを読むのは楽しいものだが、インタビューアーの質問に対する泉水さんの含みの多い答えにもどかしい思いをすることがある。
しかし、これは泉水さんのせいではなくて、どちらかといえばインタビューアーの問題だ。最近読んだ本*1にこんなことが書いてあった。
 
・・・村上龍はあるインタビューで、「この小説で、あなたは何が言いたかったのですか」と質問されて、「それを言えるくらいなら、小説なんて書きません」と苦い顔で答えていましたが、これは村上龍の言うとおり。答えたくても答えられないのです。その答えは作家自身も知らないのです。・・・
言語を語るとき、私たちは必ず、記号を「使い過ぎる」か「使い足りない」か、そのどちらかになります。・・・「言おうとしたこと」が声にならず、「言うつもりのなかったこと」が漏れ出てしまう。それが人間が言語を用いるときの宿命です。
 
泉水さんはそのことを良く知っていて、たとえば、「止まっていた時計が今動き出した」というタイトルをZARDに重ねて受け止めて良いか?との質問に、「『それでいいですか?』と聞かれるといつも『えっ、ちょっと待って』としり込みしてしまうのですが・・・(笑)」と答えることになるわけだ*2
聞きたいのはやまやまだが(笑)、こういう質問は聞くだけヤボというものである。インタビューアーが作家や詩人なら、絶対に作品や表現の意味など作家に問わないだろう。作品はそれが全てであり、それがどう受け止められようと作者は介入せず耐えなければならないということを知っているからだ。
泉水さんとしては、インタビューアーが突っ込んできても村上龍のように苦い顔はできないから、正面から答えるのではなく軽くいなすという戦略を取ることになる。泉水さんが詳しい「解説」をしてしまったなら、作品としての「含み」は減ってしまうだろう。だからこの戦略は必然であり正しいのだ。

ところで、泉水さんの、「言葉への不信」は深いものがあると思う。伝えるには表現するしかないが、表現したとたんにそれに裏切られる。しかし、その繰り返しの中からしか伝わらないものがある、と。インタビューを読みながら、そんなことを考えた。

♪心と体にはいくつもの翼がある
 どんなに愛しくてもウソに向かって飛んでゆく
 Brand New Love
 言葉を 心でかみ殺したい ・・・
              ZARD 「Brand New Love

*1:「寝ながら学べる構造主義」、内田樹、文春新書p128

*2:J*GM2004年3月号