プーシキン美術館展

東京は雪で大変だったようだけど、一段落したのかな。ZARDの41stニュー・シングル「悲しいほど貴方が好き/カラッといこう!」(両A面)の発売(2/22)まであと1ヶ月だね。取材とかもあるだろうし、坂井泉水さんも一番忙しい時期なのかも知れないけど、風邪などひかないようにして頑張って欲しい。


昨日の土曜日、関西も雪かなと思って朝起きたら意外にカラッとしていたので、中之島国立国際美術館で開催中の「プーシキン美術館展」に行くことにした。ここは去年ゴッホ展に行って、今回が2度目だ。
http://www.asahi.com/pushkin/


この日は高階秀爾さんの話があって11時から整理券を配るというので11時前に着いたのだが、既に定員オーバー。楽しみにしていたのに・・・orz。


でも展示品は予想以上に充実していて、これだけでも十分行った甲斐があった。さすがエルミタージュ美術館と並ぶロシアの西洋美術の宝庫というだけのことはある。所蔵品は35万点!というから驚く。


今回の展示は印象派と、印象派を超克しようとするその後の様々なムーブメントを中心にしている。展示品自体、とても優れたものが揃っているが、展示のしかたも非常に良い。印象派の目指したものと、それを乗り越えようとするアーティストの目指したものとの違いがわかるように工夫されているのだ。


私なりの理解で簡単にまとめておこう。


外界の光をキャンバスに定着させようとした印象派絵画は、対象が背景に溶け込んでしまうという宿命的方向性を持っていたが、それを乗り越えようとするベクトルは少なくとも3つあった。


ひとつは「形」の方向へ。ルノアールにおいては輪郭線の復活、セザンヌは確固たる「形態」の追求。それはやがてブラックやピカソの立体派を生む。出展されているセザンヌの「池にかかる橋」は、もう立体派の入り口に立っているような作品で、これほどはっきりセザンヌと立体派のつながりを見てとれる作品に私は初めて出会った。


もうひとつはゴッホゴーギャン、ルドンらが追求した「内面」の方向だ。象徴主義にとって、キャンバスはもはや外界を定着させるツールではない。今回の展示には無かったが、おそらくその延長にはシュール・レアリスムが待っているのだろう。


3番目は「色彩」である。フォービズムは色彩に独自の価値を見出したが、マティスは対象の形態から色を独立させてしまう。解放された色は、色彩相互の響きあいの中に生命を見出す。それはたぶん、カンディンスキー抽象絵画を生むのだろう。


印象派による西洋絵画の革命から様々な動きが胎動してくるさまは、まるで1960年代後半のビートルズとそれ以後のロックの爆発を見るようだ。こういう、新しい何かが続々と誕生してくる時代が一番面白いね。


ゴッホ展に行ったときの日記
http://d.hatena.ne.jp/moon2/20050715