お・も・ひ・で(3)

なぜ「時間の比較社会学」に言及したかというと、ZARDの「お・も・ひ・で」を聴いているとき、「蓄積する時間」のことを思い出したからだ。

「時間の比較社会学」には、流れ去るものという我々の通常の時間の捉え方とは異なる時間観念を持つ社会の例が豊富に紹介されているが、アメリカ・インディアンやアフリカの部族の研究者たちの報告によると、それらの人々にとって時間とは蓄積するものだというのである。

彼らの暮らすフィールドにある石や樹木などは祖先の業績と分かち難く結びついている。それらは単なる石や樹木ではなく、聖なるもの、かけがえのないものであり、彼らの存在を支えるものなのだ。彼らにとって時間は流れ去るものではなく、蓄積されていく。

「時間の比較社会学」では言及されていないが、アメリカ・インディアンたちが連邦政府により強制的に土地を買い上げられ移住させられたとき、(政府の役人には似たような土地であったろうが)彼らにとっては先祖の霊が宿る土地を奪われ、存在そのものの否定と感じたに違いない。


どうしたら
空が買えるというのだろう?
そして 大地を。
わたしには わからない。
風の匂いや 水のきらめきを
あなたはいったい
どうやって買おうというのだろう?

http://www.fuchu.or.jp/~okiomoya/titihasorahahahhadaiti.htm