宇宙感覚

君に逢いたくなったら…」のカップリング、「愛を信じていたい」を初めて聴いたときは、サンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」を思わせる重たいリズムにこれがZARDかと驚いたものだ。同時にその歌詞にもとまどった。これまでのZARDにはない世界だったから。


今から振り返ると、坂井泉水さんの歌詞に宇宙やそれに関する言葉が出てくるようになったのはこの曲が初めだなと思う。そして「宇宙感覚」が盛り込まれてくるにつれ、困ったことに(笑)、歌詞は難解になっていった。


今、「奥の細道をよむ」という本を読んでいるのだが、そこに不易流行という言葉が出てくる。この言葉自体は松尾芭蕉俳諧の奥義を表す言葉として以前から知ってはいたが、ネットで調べても明快な説明は得られなかった。「不易」とは変わらないもの、「流行」とは移り変わるものだが、芭蕉はそれはひとつのものだと言うのである。「流行」とは「無常」と同じことだが、それがなぜ「不易」なのか?


この点、坂井さんの歌詞の「無常観」を考える上で無視できないものがありそうだぞと思って読んでいくと、芭蕉が「不易流行」というコンセプトを獲得するプロセスで、(具体的には奥羽山脈を横断して出羽三山に登ったときに、)「宇宙的な体験」があったというのである。そして、このような巨大なスケール感の句が生まれた。


荒海や 佐渡によこたふ あまのがは
しづかさや 岩にしみいる 蝉のこえ
雲の峰 いくつ崩れて 月の山
暑き日を 海に入れたり 最上川


「人の生死にかぎらず、花も鳥も太陽も月も星たちもみなこの世に現れては、やがて消えてゆくのだが、この現象は一見、変転極まりない流行でありながら実は何も変わらない不易である。この流行即不易、不易即流行こそが芭蕉の不易流行だった。」(P.189)


無常観を超えて坂井さんの後期の歌詞に現れる「大きな愛」に至るプロセスで、「宇宙感覚」が重要な役割を果たしたと言えるのではないか、と考えているのだが・・・。

「奥の細道」をよむ (ちくま新書)

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