無常と美意識(3)

だいぶ間が空いてしまったが、「無常と美意識」の続きである。私は坂井泉水さんの歌詞に見え隠れする無常観に関心を持っているので、西洋における無常観の在りようも気になる。前振りが長過ぎたけれど(笑)、ようやく国立新美術館の「ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密展」のバニタス画の話である。


バニタス(ヴァニタス)とは英語でvanity。虚栄とか虚しさという意味だ。西洋には「真実」とか「愛」とかの抽象的観念を絵画等で扱う習慣があるが、「無常」という観念により「はかないこの世での栄光や快楽におぼれず、神を畏れよ」というキリスト教の教訓を表そうとするのがバニタス画と言える。


http://wien2008.jp/hm2/の絵に描かれたドクロや火の消えたロウソク、砂時計ははかなさ、虚しさを表すバニタス画の定番グッズだ。西洋では宗教画のような「高尚な」思想を扱う絵画が高級とされており、こうした定番グッズも何らかの意味を持って思想表現のために置かれているのである(最も有名な例はテーブル上のパンだろう。パンは最後の晩餐でキリストが弟子に自分の肉として与えたとされる聖なる食物であり、その絵を見る者にはパンの向こうにキリストが見えたはずである。)。しかし、「高尚な」テーマがない静物画には低いランク付けしか与えられず、それが「意味」の呪縛を逃れて静物自体の美の表現へと独立していくのはもっと後のことである。


しかし、こう露骨にドクロが描かれると異様な、グロテスクな感じさえ受けてしまう。砂時計や楽器なども克明に描かれているものの、そこに日本人好みの優美さや叙情性を感じることは困難であろう。なお、バニタス画の他の例は http://www.sound.jp/camerata/gallery/index11.htm#vanitas にある。


西洋との最も重要な違いは、日本人が無常それ自体に美を見出したことにあると思う。無常観が美意識にまで高められているのが日本であり、その典型を徒然草に見ることができる。それに対して、バニタス画においては無常観は克服すべきものであり、否定的な価値であって、信仰強化の一手段として位置づけられている。だから、それは美意識にまで高められることはなかったのだろう。


日本にもバニタス画に似たものがないわけではない。六道(りくどう)絵、地獄絵等である。地獄の恐怖を描き、信仰の大切さを説くという教訓的機能はバニタス画共通するものがある。しかし、私の考えではバニタス画と全く同様の理由で、その無常観は美意識につながらない。


見渡せば花ももみじも無かりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ 
藤原定家新古今和歌集


この無常の美学の傑作を絵画で表現することは無理だろう。「無いこと」は絵で描けないし、あえて描こうとしない。日本では無常観は主として和歌や随筆等の文学で表現され、それを絵画で表現しようとする伝統は形成されなかったのかもしれない。
(もし無常観の絵画表現があるとすれば、禅画や水墨画のようなジャンルになるのではないか。実を言うと、長谷川等伯の傑作「松林図屏風」http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=A10471 などは無常観の表現ではないかと思っているのだが、残念ながら日本における無常観の研究対象はほとんど文学だけで、絵画等のジャンルの文献は見当たらない。また、無常観と美意識の関係を論じる文献も見つけることができなかったが、これは学問上の盲点なのかもしれない。)。



坂井泉水さんの美意識の底にある無常観を探ろうとして、バニタス画における無常観の表現を見てきたが、共通するものよりも差異ばかりが目につく結果となった。西洋絵画における無常感は、それを美意識と呼ぶとしても、無常自体に美を感じる日本的美意識とは大きな隔たりがあるのである。残念ながら、西洋画は参考にはなりそうもない(笑)。しかし、今回、日本人の美意識に高められた無常観について、ある程度整理できたことは収穫だった。


最後に付け加えておきたい。
「全ては変わっていく」というのが無常観だが、その中に「変わらないもの」を見出すという考え方も当然ある。芭蕉の言葉で言うなら「不易流行」である。私は、これが坂井さんが後期に到達した境地でもあると思っている。


ひとまず、終わり。