坂井さんの「匂い」(3)

異質なものの組み合わせというほどではないが、俳画の匂いづけというのは(俳句と絵の対象の間にある)或る種の「揺らぎ」を指す言葉だ。私の場合、坂井泉水さんが「この曲のテーマは・・・」と言われるのを読んで、「え?そうだったの?」と思うことがかなりあったが、これはテーマと表現に少し距離があって「匂いづけ」の関係にあるからだろう。坂井さんの詞の味わいの深さ、奥の深さも、ひとつには「揺らぎの匂い」なのだと思うから文句を言うわけではないが、「べたづけ」ならわかり易いのだが・・・(笑)。


またZARDには、明るい曲調に切ない歌詞を乗せるというパターンがあるけれど(たとえば「君がいない」)、それも常識的には相反する組み合わせだ。つまり、マーティ・フリードマンさんがサウンドとボーカルについて述べられた「あり得ない組合わせ」に近いものが曲調と歌詞についても見られる。こうした異質なものの組み合わせから生じる「はみ出し感」、あるいは意外性はZARDのひとつの魅力になっていると思う。


さらにもうひとつだけ付け加えておくと、独特の当て字から生まれる「表現」と「表現されたもの」のずれ、揺らぎの効果も坂井さんの作品の魅力のひとつだろう。例えば、「大勢(なかま)の中に居ても 孤独を感じていた」(「君がいたから」)。「仲間」が絆の失われた「大勢」に変わってしまったことをこれほど簡潔に鮮やかに表現した例を私は知らない。


要するに、ZARDには予想を裏切るいろいろなフェーズでの「揺らぎ」が存在する(「意外性」、「ギャップ」あるいは「ずれ」と言っても良いのかも知れないが、そうすると「魅力」の部分がすり抜けてしまうような気がするのだ。)。「揺らぎ」の多くは意識的な表現行為だから、私の考えでは、坂井さんは自明な対象に揺らぎを与える行為をアートの方法論(のひとつ)として意識的、積極的に採用しておられるのである。「良い意味で裏切りたい」という坂井さんの言葉は、それを述べたものだと思う。


対象に揺らぎを与えるという坂井さんのこうした方法論は、俳画の「匂いづけ」という方法論と共通すると言って良いのではないか。作者が意図的にずれを与えているのだから、幾つもの作品解釈があって良いし、それがまた面白いところなのだと思う。


(終わり)