いのち 永遠にして(1)

坂井泉水さんが亡くなられてからというもの、私は「死」について考えることが多くなった。私は「死」というものを一応わかっていたつもりだったのだが、どこか違う。つまり、私の持っていた死生観ではうまく受け止めることができないものを感じ始めるようになったのだ。


まだ十分固まっているわけではない、しかも死生観という極めてプライベートなものをここに書くことの迷いもあるのだが、書くことを通じて考えが多少整理できるかも知れないし、今の考えをまとめておきたいという気持ちから、少しづつ書いていくことにした。ただ、もしかすると、完了しないかもしれない。


なお、コメントを書いていただくのは大変ありがたいが、本件は「正解」など無いプライベートな価値観に関わることゆえ、基本的にレスはしないつもりなのでご了解いただきたい。


まず、私が読んだ本の紹介から始めることにしよう。竹内整一さんの「日本人はなぜ『さようなら』と別れるのか」という本である(以下「『竹内「さようなら」』と言う。なお、竹内さんの別の著書『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』については以前少し触れたことがある。 http://d.hatena.ne.jp/moon2/20080710

日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか (ちくま新書)

日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか (ちくま新書)

竹内「さようなら」は実は日本人の死生観を論じた本である。それを「さようなら」という言葉から学者らしい几帳面さで分析・展開して行くわけだが、その詳細を紹介するのは本筋から外れるので、ここでは私が関心を持ったことだけに留めたい。


竹内さんは「死の臨床と死生観」というシンポジウムでのパネリスト、広井良典さんと柳田邦男さんが共に現代は「死の物語」を必要としていると発言していることに言及し、こう述べる。
同じ「死の物語」とは言いながら、両者は異なる意味で用いている。柳田さんは「死のこちら側で、人生をその終わりにおいて完結させるという意味で」、また広井さんは「死あるいは死後のあちら側の世界や、大きな枠組みとしての自然・宇宙をふくむ」大きな物語として、「死の物語」を用いている。つまりここには二つの「死の物語」があるのだ、と。P40
(広井さんについても触れたことがある。 http://d.hatena.ne.jp/moon2/20090620


いささか乱暴に簡略化すると、両者の違いはあちら側、すなわち「あの世」の存在を信じるかどうか、ということである。


このシンポジウムの資料は http://www.l.u-tokyo.ac.jp/shiseigaku/ja/gyouji/s04_care2.htm からリンクされたPDFファイルとして提供されている。
読んでみると、「あの世」の存在を信じるかどうかということに限るなら、私の考えは森岡正博さんに非常に近いものだった。森岡さんの言葉を借りれば、「自分の気持ちに正直になったとき、自分が死んだあとにいく世界があるとは信じられないのである。」。


(続く)