いのち 永遠にして(4)

竹内「さようなら」には、前述のシンポジウムで柳田邦男さんが「二人称の死」という考え方を述べられ、「二人称(あなた)的存在の死を経験することで、『あの世』の考え方が変わった」と言われたことが紹介されていた。P42


柳田さんは、「一人称(私)の死は、自分がどこへ行くのか、という、いってみればエゴイスティックな感覚で、そこには自分自身しかいない。しかし、二人称の死を経験して、自分の中に溶けこんできた二人称の存在感の大きさからいろいろ気づかされた。死んでいった息子や父がどこにいるかというと、自分のなかにいる。つまり、自分が『あの世』になってしまうのだ、ふすまを開けたら、そこは私であったという感じだ。」と語った、と。P45


「自分が『あの世』になってしまう」?!変なことを言うものだなと思っただけで、私はその時はあまり気に留めなかった。坂井泉水さんが亡くなられてから、私のそれまでの死生観では説明しきれないものを感じていた私にとっては、「二人称の死」という言葉に出会ったことの方が重要だった。実際、その言葉が、自分の死という範囲でしか考えていなかったことに気付かせてくれるきっかけとなったのである。


竹内「さようなら」ではそれ以上の詳しい説明はなかったので、柳田さんがもっと「二人称の死」について語っている本はないものかと探したところ、「犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日」(以下、柳田「犠牲」と言う。)の中に、「脳死・二人称の死の視点を」という一節が収められていることがわかった。柳田さんの本は初めてだったが、読んでみると非常に考えさせられる内容だった。

わが息子・脳死の11日 犠牲 (文春文庫)

わが息子・脳死の11日 犠牲 (文春文庫)

この本は心を病んだご子息の洋二郎君(25歳)が自殺を図り、心停止で発見され、その後心臓は蘇生したものの脳死状態に陥り、心臓が止まるまでの11日間を描いた手記である。「二人称の死」を語られているところ以外も併せて少し紹介してみたい。


(続く)