いのち 永遠にして(7)

「われわれは人の死というものを考えるとき、自分の死も他人の死もいっしょくたにしていることが多い。しかし、死というものには、『一人称の死』『二人称の死』『三人称の死』があり、それぞれにまったく異質である。」と柳田さんは言われている。 P222


「一人称の死」とは自分の死であり、「三人称の死」とは、「第三者の立場から冷静に見ることのできる死である」。「交通事故で若者五人が即死しようとアフリカで百万人が餓死しようと、われわれは夜眠れなくなることもないし、昨日と今日の生活が変わることもない。」 P223
「二人称の死」とは、柳田さんによれば「連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人の死である」(後の著作では親友、戦友も加えられている。)。 P223 親しい者、愛する者の死は、心に大きく深い喪失感を残す。「二人称の死」は、心にもうひとつの死が訪れる特別な死なのだ(だから看取る者にとって受容の物語を創るプライベートな時間と場所が極めて重要であると柳田さんは言われ、脳死を人の死とすることはその機会を奪ってしまうと指摘されているのである。)。


死には人称がある。私はハッとした。私も「自分の死も他人の死もいっしょくたに」考えていたからである。自分の存在が無くなれば、生まれてくる前と同様に、自分も世界も何もない。ただただ全く何もない状態になる。「死んだらそれきり」である。それで良いではないか、死とはそういうものだ、と。


冒頭に書いたように、坂井泉水さんが亡くなられてから、こうした死生観ではうまく説明のできないものを感じていた。それをあえて言葉にするなら、客観的事実としては坂井さんは亡くなった。しかし私にとって、坂井さんは亡くなっていないという気持ちがどこかにある。心の中で生きておられる、ということである。


しかし、譬え話やフィクションならともかく、心の中で生きておられるという気持ちを認知することには抵抗があった。結局これでは「あの世」を想定してしまうことになるのではないのか?


(続く)