いのち 永遠にして(8)

心の中でにせよ「亡くなった人が生き続けている」とすれば、それは「この世」においてはあり得ないことになるのではないか。それはすなわち「あの世」の実在を認めることになり、「あの世」の存在を前提にしないころから出発したのに、これでは逆戻りではないか?


これは論理的に見れば確かに難問かもしれない。しかし、洋二郎君を思う柳田さんの気持ちは言うまでもなく、戦死した息子の帰還を待つ母親、死んだ恋人を思うフィアンセなどの気持ちを思えば、「亡くなった人が生き続けている」ことが決して誇張ではなく、むしろ自然な「現実」であることがわかる。それが「二人称の死」であり、そこに「あの世」などを持ち出す余地もないだろう。


柳田さんは「物語」という言葉で説明されている。
「ガンのターミナルケアの場合は、何日、何か月というゆるやかな『時間』の経過のなかで、家族はそれぞれに物語をつくり、現実を受け入れていく。」。しかし救急医療の場合は極めてわずかな時間の中で納得できる物語をつくらなければならないから、患者・家族にはそうする時間と場所が何より大切になるのだ、と。P241


もちろん、柳田さん自身も「物語」をお持ちである。
洋二郎君の腎臓が無事移植されたという報告を受けた時、「『ああ、洋二郎の生命は間違いなく引き継がれたのだ』という実感が胸にこみあげてきた。」と。 前述、P207


また、小川洋子さんも「物語の役割」の中で、こう言われている。
「非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。」。
「物語」はもちろんフィクションである。しかし、物語を紡ぐことこそ、自然な、人間らしい豊かな心の働きなのだ、と。それで良いのだと小川さんは言われるのである。http://d.hatena.ne.jp/moon2/20090127


坂井泉水さんが心の中で生き続けているというのは「物語」であり、フィクションである。「心の中に居られる」ことがフィクションであっても、強いリアリティを持つならばそれは「リアル」と言って良いし、むしろ自然なことなのだと私は考える。もちろん「あの世」などとは関係がない。


死と闘い続けた洋二郎君が遂に力尽きようとする時、柳田さんはこう呼びかける。
「洋二郎、もういいよ。そんなに頑張らなくても。十分に頑張ったよ。よく頑張った。二人の人の命を助けるんだ。最善を尽くすからな。その二人の人のなかで、生き続けるんだ。元気でな。」 P202


そして柳田さんは洋二郎君の墓碑銘にこう刻む。
「いのち 永遠にして」


(おわり)