坂井泉水さんの美意識について

今日、東京は大雪(といっても積雪8cm、雪国の方から笑われますね。)。電車は止まり、交通機関は大混乱。夜にはだいぶ収まったようですが。でも
「明日はきっと晴れるでしょう」ですね^ ^。


では本題。「坂井泉水さんの美意識について」

ひょっとすると坂井泉水さんの美意識について何らかのヒントを与えてくれるのではないかと思える本を読んだのでご紹介します。


その本は「日本美術を見る眼」(高階秀爾著、岩波書店)です。著者高階先生は現大原美術館長、元西洋美術館館長で西洋美術の大家であり(ただし、後書きによると若い頃から日本美術をも研究されていたそうです。)、この本は和洋の美術に通じた高階先生が様々な角度から日本と西洋の美術を論じたものです。碩学の論考は面白いものが多いのですが、坂井さんとの関連で私がご紹介したいと思うのは、冒頭の「日本美の個性」という一節で、これは一言で言えば「日本人にとって美とは何か」を追究したもの。日本人の美意識は際立って個性的でユニークなものと結論しています。それがどのように坂井さんの美意識に関わるのでしょうか?


まず高階先生は、大野晋先生(高名な国語学者)の論を引用し、「うつくし」という言葉は万葉の時代には「美」を意味するものではなく、「親や妻子に対する愛情を表す言葉」だったと。それが「竹取物語」でかぐや姫が竹の中から発見された時「三寸ばかりなる人うつくしうていたり」という例や、「枕草子」で「なにもなにも小さきものはみなうつくし」という例にあるように、「小さなもの、可憐なものへの愛情の意味に変わり、室町時代から今日の「美しい」に近い意味で用いられるようになった、とあります。また今日広く用いられている「綺麗」という言葉は室町時代頃から登場したが、もともとは汚れのない、清潔なという意味であった、と。大野先生は更に論考を重ねて「日本人の美の意識は善なるもの、豊かなるものに対してよりも、清なるもの、潔なるもの、細かなものと同調する傾向が強い」と結論づけます。


それを受けて高階先生は、西洋美術の美意識の根となったギリシャで「美」は「力強いもの」や「豊かなもの」と結びつく。またギリシャでは人間の身体の美しさを数学的比例関係で基礎づけようとしたし、ルネサンス期には美を幾何学的原理に還元しようとする試みが繰り返し行われたように、「美」を何らかの客観的、合理的原理によって捉えようとする、としています。


それと対照的に日本人は「小さなもの」「愛らしいもの」「清浄なもの」に強く「美」を感じており、その「情緒的、心情的」特質は際立っている。日本人にとって「美」とはそれを感ずる人の心の中に存在するものであって(例えば「やまとうたは、人の心を種として、万(よろず)の言の葉とぞなれりける」古今和歌集序)、対象に属するものではなく、シンメトリー、プロポーション幾何学黄金比等、「美」を合理的な原理に還元しようとする試みは日本人の美意識とは無縁であった、と(私としては西洋庭園を思い浮かべればこのシンメトリー等の特長がよく解るのではないかと思います。)。

こうした「心情の美学」の特質から、「美」は「必ずしも完成されたもの、完全無欠なものでなくてもよく(例えば、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」徒然草)、「不完全の美、欠如の美、あるいは廃墟の美」への意識も生まれてくる(高階先生は使っていないのですが、私は「未完の美」も付け加えたいように思います。)、としています。


坂井さんはこう仰っています。

「私が興味を持つのは、完成されたものよりも“未完の良さ”ですし、人間の、理屈では割り切れない“感情”に着目したいなと思っています」と。

2003.04.09 Music Freak Magazine
「明日を夢見て」コメント
http://www.mfmagazine.com/mfm/other_contents/backnumber/previous_year/2003/03_04/0304_tokushu1.html



次に、坂井さんご自身の言葉、歌詞、映像という切り口から坂井さんの美意識を探っていきます。


(続く)