言葉の深さ
ありし日に覚えたる無と今日の無と さらに似ぬこそ哀れなりけれ(与謝野晶子)
「永遠」がリリースされた頃だったか、坂井泉水さんは与謝野晶子が好きだという意味のことを言われていたと思うが、晶子のこんな歌を読むと、確かに坂井さんの詩と通底するものがあるような気がする。
無というのは何もない状態ではない。無には深さがあるということ、その深さは一様ではないことをこの歌は教えてくれる。この歌は鉄幹への追悼歌だそうだ。夫がいた時の無と、夫を失った今日の無は質的に全く違うということ。二つの無を対比させることで、「哀れなりけれ」という詠歎が深まり、胸を打つ。
同じ人が同じ言葉を使っても、深さ(質と言っても良い)が違うということは大いにあり得る。重たい言葉を時を経て使う場合、むしろそれは自然なことだ。「科学的」な言語観では同じ言葉は同じ定義・内容でないと困るのだろうが、そういう「科学」の勝手な都合を人間に当てはめるわけにはいかないのである。
たとえば「愛」という言葉。今年はZARDがデビューして15年目だが、15年前と今とでは内包するものが違うだろう。違うのが当然なのである。*1
こう考えてきて、ハッと思い当たることがあった。私の場合、ちょうど今のような新曲が出るまでの間の時期には、ZARDのデビューから今までの曲を時系列的に順に聴いたりして楽しむのだが、聴きなれた曲でも少し間を置くとすごく新鮮で、飽きるということがない。それは何故なのか。自分でも不思議だったのだが、その理由のひとつがわかった気がしたのだ。
ZARDの楽曲の完成度の高さが基本にあることはもちろんだろう。そしてデビュー以来のサウンドの変化を感じることができるということもある。それに加えて、坂井さんの言葉の指し示すものの変化を(ほとんど無意識にではあるかもしれないが)聴いているということにもあるのではないか。今回それに気付いたのである。
悲しみという感情も、初期の作品では無常観に強く彩られた、場合によっては刹那的な感情だったが、最近では祈りの色彩が表れてきているように私には思える。こういった「無常観から祈りへ」という変化などは、個々の楽曲を単発的に聴いていても感受することはたぶん難しいだろう。*2
冒頭の晶子の歌は下記の書評で知った。この本を読んでみたくなった。竹西寛子著「陸は海より悲しきものを」。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/dokusho/archive/news/2005/01/09/20050109ddm015070114000c.html