言葉の力 3

大岡信は同じ本に収められた「詩と言葉」という別のエッセイで、このノヴァーリスの言葉に言及して、詩人がやっているのは、その「さわっている部分をむこう側に向けてどこまでおし拡げうるか」ということだと言っている。

見えないもの、聞こえないもの、考えられないものというのは、無限なるもの、聖なるものを示唆しているとも考えられるけれど、とりあえずここでの問題は、私の言葉でいえば「言葉の喚起力」である。言葉は「氷山の一角」に過ぎず、ささやかな存在だが、それが喚起するものは時には世界大の広がりを持つ。人生を変えてしまうことだってある。

詩の生命は言葉自体にではなく、それによって心の中に喚起されたものにある。詩人は言葉の喚起力によって、言葉の「むこう側」にあるものを極大化しようと苦闘する。言葉で "heart to heart" の回路を作ろうとするわけだ。ところが、皮肉なことに、喚起されるものは受け取る人によって異なるから、「読み手によって違う読み方をされる可能性があるのは当然」ということにもなる。

けれども、大岡はそれを全然否定的に捉えていない。「自分に見えてることを、できる限り正確に書くということを目指さねば」ならないが、「どこまで正確に書こうと思っても、どこかにそうでない部分があって、しかもその部分が人を魅惑するのだ」と言うのである。

そうなのだ。私が坂井泉水さんの幾つかの詩に見出す奥深さは、まさにそれである。わかったつもりでいても、ある日突然、またその先が見えるのだ。もちろん、例えば「負けないで」や「心を開いて」のように、もっとストレートな形で心に響いてくるものも多く、それが坂井作品の大きな魅力であることは間違いない。奥深さというのは坂井さんの作品の数多くの魅力のひとつでしかないのだが。

大岡の考えを推し進めると、あくまで詩人は「正確に書くということを目指さねば」ならないという前提の話だが、誤解もまた良しということになる。作者の意図から外れた理解がなされるのは珍しいことではないし、そうした理解(誤解)でその人が「共感」しているなら、それで良いではないかということだ。

こうした考えは、坂井さんの詩をあーでもない、こーでもないと思案している私をかなり安心させるが(笑)、別にそれが言いたくて書いてきたわけでは無論ない。ささやかな言葉が持つ力の偉大さ・不思議さについて、大岡の考え方をサマライズしておくという意図は一応果たせたので、ここでお開きにしておこう。

(おわり)