秋のゆふぐれ

見渡せば 花ももみぢもなかりけり 浦のとまやの 秋のゆふぐれ(藤原定家


桜も紅葉もない海辺の粗末な小屋の夕暮れの情景を歌った、たぶん教科書の定番の名歌だ。この歌について城戸朱里という詩人が書いている(毎日新聞、2005年10月31日夕刊)。


「何かが欠けていることによって、存在している別の何かが、より明らかにな(る)」。その「何かが欠けている状態が侘び、そのときに感じられる心理が寂び」であり、その美意識が茶の湯芭蕉俳諧へと受け継がれ、日本的美意識の理念になっていったのだ、と。


なるほどね。侘び寂びというのはこういうことか・・・。日本人は不在や無を美のエネルギーとして受け止めるDNAを持っているのだと思う。儚さや移ろいやすさから生まれる「もののあはれ」も同類だろうし、力への意思や壮大さ、華麗さをそぎ落とした桂離宮の「簡素美」にも通じているだろう。


ところで、この歌には歴史的に様々な解釈や評価がなされていることをググッて初めて知った。
http://www.hatena.ne.jp/1129720562


「名歌だなんてとんでもない」という評価も結構多いらしいが、この歌の良さがわからないなんて、気の毒だとさえ思ってしまう(笑)。私は素直にこの歌が好きだ。松岡正剛が語っていることに共感する。ちょっと三島由紀夫の受け売りみたいな気がしないでもないのだが・・・(笑)。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0017.html


閑話休題。城戸にもどろう。ある有名な随筆家が、師匠から自分がいちばん言いたかったことを削られてショックを受けた、という話を城戸は紹介している。いちばん言いたいことを語らないことで、逆に強く読者に伝わるというのが師匠の教えだったという。


随筆がそうだとすれば詩はなおさらだ、と詩人である城戸は言いたいのだろうけど、それを言っちゃあオシメエよ、だ(笑)。いちばん言いたいことは言わないのだ。


それはともかく、その禁欲的精神が最も要求されるのは詩であることは言うまでもない。私も多感な頃(笑)、詩を書いたことがあるが、どうしても説明的な内容にしたくなってしまう。で、自分は詩には向かないと悟ったのである(笑)。言いたいことをあえて控えるというのは、強い精神力が必要で、私には耐えられなかったのだ。


「非在の美」という日本的美意識や、あえて語らないというスタイルは、坂井泉水さんの作品を理解しようとするとき重要だと思う。それで城戸さんの文章を書き留めておくことにしたのである。