坂井さんの「匂い」

ちょっと思わせぶりなタイトルだが(笑)、別に嗅覚上の話ではなくて、先日、知人の招きで行った俳画展の話である。俳画展なんていかにも爺臭いし、あまり興味は無かったのだが、行ってみるとなかなか味わい深く、その方法論には坂井泉水さんのそれに通じるものを感じたので、それについて書いてみたいと思う。


知人の説明によると、絵に添えた短い言葉を「讃」というが、俳画とは俳句を讃とする南画風の絵である。俳句と絵の関係には俳句の題材をそのまま表す「べたづけ」と、題材を描かずに別のもので表す「匂いづけ」とがある。たとえば、「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」で柿を描くのがべたづけで、ススキなど(俳句で表現されていないもの)を描けば匂いづけになる。そして、匂いづけの方が味わい深いということだった。


最初「匂いづけ」と聞いて♂犬のマーキングを連想してしまったが(笑)、考えてみると、「匂いを付ける」という意味ではなくて、「つけ」とは俳句と絵の「関係づけ」のしかたを意味するようだ。つまり、べたづけは明確で直接的な関係づけ、匂いづけとはズレを含んだ間接的な関係づけと言えようか。そして、怪しい「匂い」という表現のように、そのそこはかとない関係から立ち込める微妙な気配を「匂い」と呼び、そのズレを楽しむことが匂いづけの味わいということなのだろう。


俳画の匂いづけにおける(俳句と絵の)ズレはかなり微妙なものだが、私はそれと共通するものが坂井泉水さんの作品にもあると思う。以前それを「はみ出し感」と呼んだことがあるが、私は「ズレ」、あるいはもっと大きく「ギャップ」とでも言うべきものがZARDの沢山の魅力のうちのひとつなのだと思っている。そしてギャップを意識的に広げて行くことが、坂井さんが良く言われていた「良い意味で裏切りたい」という言葉にもつながって行くのではないだろうか・・・。


(つづく)