光の道

ああ、この響きだ。ZARDのコンサート会場の開演前にホールを包んでいたのは・・・。坂井泉水さんご自身が選曲されたキース・ジャレットのケルン・コンサートをようやく聴いた。

ザ・ケルン・コンサート [SHM-CD]

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コンサートをピアノだけのインプロビゼーション(即興演奏)で成立させてしまうすさまじい力を秘めながら、ピュアな響きがホールの静寂を包んでいく。結局私にはジャズがわからないままだが、キースのこの演奏は、いわゆるジャズというジャンルからはみ出していて、わからないなりにも伝わってくるものがある。


一瞬の想いが弾け、キースはバリエーションを展開していく。澄み渡った大気の中で見えてくる感情やイメージ。キースはそれを音にしたのか。そして、逆に音から詞のイメージを膨らませていく坂井さんは、それにインスパイアされたのだろうか・・・。


瞑想と陶酔のさ中で生まれる小さなパッセージが、全体の構成感と絶妙に調和している。きっとキースには「光の道」が見えているんだろうな。私はそう直感した。
 
スピードスケートの清水宏保選手は、レース中、何を見ているんですか?という質問に対して「『光の道』です。」と答えている。私はそれを思い出したのだ。
西村欣也、「神の領域を覗いたアスリート」、朝日新書、P83〜

神の領域を覗いたアスリート (朝日新書)

神の領域を覗いたアスリート (朝日新書)


「レース前に500メートルのコース取りを完璧にイメージする。それが光の道となって記憶される。レース中はそのコースを追うんです。」


「最高の状態で滑っているときは、自分の周りが真っ白になる。外部の音は何も聞こえない。視野は30センチぐらいしかない。体の中をゆっくりと時間が流れていきます。滑るべきラインが光って見える。確かに不思議な世界ですね。聞こえてくるのは自分の声。『そこは、抑えながら…』とか自分と対話しながら滑ってますね。」


世界記録のレースは、その光の道を狂いなく追えたのですね?
「それが違うんです。最終コーナーの出口で2センチ外にふくらんだ。それがなければあと0.2秒は速くなっていました。」


驚くべき回答である。常人にはうかがい知れない世界だが、頂点を極めた人の言葉には説得力がある。自らの身体を研ぎ澄まされた感覚の中で細部に至るまで完璧なセルフコントロール下に置き、しかもゴールまでの全体が見えているという、細部への集中と全体の透視。それが「光の道」と表現された身体と意識の在りようなのだろう。私がキースの演奏に感じたものもそれと良く似ていた。


ここまで書いてきて、小林秀雄の「モオツァルト」で紹介されているモーツアルトの手紙のことを思い出した。モーツアルトも一瞬で楽曲の全体が見えたという。昔読んで、天才とはこういうものかと強く印象に残ったのだ。モーツアルトはこういうことを言っている(趣旨)。


それがどこから来るのか、どうして現れるのかわかりませんが、楽曲の構想は奔流のように後から後から心の中に姿を現すのです。それはどんなに長いものでも、私の頭の中で実際にほとんど完成され、私は絵を見るように、心の中で一目でそれを見渡します。後になれば順を追って現れるものが、想像の中ではまるで全てのものが皆一緒になって聞こえるのです。後で書くときは、脳髄の袋からそれを取り出すだけ。だから、噂話をしながらだって書けるのです。
小林秀雄、「モオツアルト・無常ということ」、新潮文庫、P14〜