「夏の庭」、そして「Boy」(2)

(私の長ったらしい文章はいつものことですが(汗)、今回はとくに本題にあまり関係無く見えると思われる寄り道が多いことを予めお断りしておきます。まー、この日記は自分用のメモでもあるので、お許しを・・・。)



「夏の庭」、決して失われぬもの
「夏の庭―The Friends」を見に行った。「Boy」がエンディングテーマになっている映画だし、ZARDファンでなくても94年度キネ旬日本映画第5位の話題作だから見た人も多いと思う。私も以前から見たかったのだが、かなり古い映画なのでなかなか機会がなかったのである。


直接のキッカケとなったのは、ある本で「夏の庭」の原作の小説が高く評価されているのを知ったことだった。小説を読み始めると面白くて一気に読んでしまった。では、映画はどうなんだろう?「Boy」がどんな風に使われているのだろう?と思うと、映画を見たいという気持ちに火がついた。ところがググッても上映している映画館はなかったのだが、思い出してはググり続けること数カ月、たった1日だけだが上映する映画館が見つかった時は思わずガッツポーズだった(笑)。


死生観を問いなおす (ちくま新書)

死生観を問いなおす (ちくま新書)

原作の小説を評価していたのは「死生観を問いなおす」という本である。早速横道にそれるが(笑)、とても良い本だから少しだけ触れておこう。著者は広井良典さんという千葉大学社会保障や福祉論の教授だが、こうした倫理学的な著作も多いようだ。「死生観を問いなおす」は死生観を「時間」という角度から考察し、死、永遠、時間といった根本的問題について刺激的な示唆があちこちに見られる。理論的に掘り下げられていないところも多いが、新書ということを考えるとやむをえないだろう。


「夏の庭」に言及しながら、広井さんは「老人と子供」の関係に新しい光を当てる。私なりの理解で言うと、従来の区分では「大人」と「子供」の2つしかなく、「老人」はやがて死んでいく年老いた「大人」でしかなかったが、「老人」は「大人」とは質的に異なった(むしろ子供に近い)存在だから、「大人」とは区別して考えなければならないと言う。そして「大人」という働き生殖する存在に対して、「子供」は遊び学ぶ存在、「老人」は遊び教える存在として、「老人と子供」の教え学ぶ関係の豊かな可能性を提示し、そのひとつの例として「夏の庭」を取り上げているのである。実際の例として、老人ホームの老人たちが幼稚園児との交流で生き生きする様子などが紹介されているが、社会保障や福祉の専門家としての体験に裏打ちされた主張には説得力があった。