「夏の庭」、そして「Boy」(3)

さて本題に戻ろう。
「夏の庭」は、死に対する恐怖と好奇心から老人の死にざまを見ようと、世捨て人のようなおじいさんの観察を始めた少年たちであったが、やがて両者の間に友愛が育ち、少年たちはおじいさんから多くのことを学ぶ。そしておじいさんが死を迎えた時、少年たちは悲しみとともに、決して失われぬものに気付く。同時に、少年たちが死に対して懐いていた漠然とした恐怖や不安は消え、ある意味で「死生観」を獲得する、というストーリーである(死生観とは、広井さんによれば「私の生そして死が、宇宙や生命全体の流れの中で、どのような位置にあり、どのような意味をもっているか、についての考え方や理解」を言う。)。ストーリーは深いのだが、少年たちの大真面目さがかえってコミカルで、それが堅苦しさから救っている。そこのところは小説も映画も変わらない。

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

夏の庭―The Friends (新潮文庫)


そのストーリーに惹きつけられたのはもちろんだが、私には映画と小説の表現方法の違いも面白かった。小説は細部の描写の積み上げでストーリーを膨らませて行き、映画は映像の強いインパクトを武器にして、ある意味でストーリーを単純化して(と言って悪ければメリハリをつけて)行く。つまり、小説で重視される細部の表現やわき道的なストーリーは映画では大胆に省略され、あるいは原作にないストーリーを入れたりもして、大きなストーリーを浮き出させる。これは表現手段の違いによるものだ。もし小説の細部までも映画にすれば、恐らく10倍以上の長さになってしまうだろう。どうやってストーリーを絞り込むかは監督の作品解釈に依存するから、映画は小説とは異なる作品としての独自性を持つことになる。


蛇足になるが、映画では小説にはないストーリーが少なくとも3つあったので、メモしておく。

1.病院の場面。小説ではあっさりした記述だったが、映画では木山少年が他人の死に遭遇するところが幻想的に、かなり長く描かれている。
2.おじいさんの奥さんの描き方。戦争で妊婦を殺したおじいさんは奥さんに会いに行くことができなくなってしまうのだが、その奥さんが映画後半では非常に重要な位置を占めている。
3.井戸。小説には井戸は出てこないが、映画のラスト近くに死んだ蝶や鳥たちが甦って井戸の中から舞い上がる美しいシーンがある。私の理解では、これはおじいさんとの楽しかった思い出や友愛といった、決して失われぬものの象徴で、映画においては最も重要な場面だ。


(続く)