「夏の庭」、そして「Boy」(4)

「Boy」、少年たちの残像


「Boy」はエンディングテーマとして、俳優名やら何やらが映し出される時に流れる。映画でずっと流れていた音楽が控えめなアコギのつま弾きだったためか、あの穏やかな曲調の「Boy」がとても強いインパクトを持って響いてくることに驚かされた。


ジャケに「夏の庭―The Friends」エンディングテーマと印刷されていることからも明らかだが、「Boy」は映画タイアップを前提として作られた。Sonaさんのご指摘によると、映画のパンフに歌詞が載っていたそうである。しかし、「Boy」リリース時にはまだ映画を見ることはできなかったわけだから(「Boy」がリリースされたのは1994年2月2日で、映画の封切りは1994年4月。)、作詞の前提として坂井泉水さんは原作の小説をお読みになったはず。読書好きの坂井さんのことだから当然だと思われる。


そうすると少年たちを歌った内容になりそうなものだが、それは私のような凡人の発想なのだ。「Boy」は男女の恋愛の歌である。つまり坂井さんは意図的に原作から距離を取って創られていることになる。


ところが映画の最後に聴くと、繰り返し現れる「Boy」という言葉や「小さな彼」といった表現に、どうしても映画に出てきた少年たちを連想してしまう。あらためて歌詞を読んでみると、男女の恋愛の歌なのだが、恋愛とも少年たちの歌とも取れる中性的な部分が多いことに気づく。坂井さんは「夏の庭」の少年たちの残像を意図的に恋愛の歌詞の中に残しているのだと考えるしかない。そしてそれが歌に不思議な響き合い、重層性を生むことになる。実に坂井さんらしい、この計算された「泉水マジック」に、私はあらためて感嘆してしまったのである。


映画を見て以来、極端に言えば私の「Boy」像は変貌し、「夏の庭」の少年たちの残像が坂井さんの声の向こうに透けて見えるようになってしまった。しかし、たとえ小説や映画を知らなくても、「Boy」にはまるで小さな子供を見るような坂井さんの優しい、慈しみの眼差しを感じることができると思う。それはきっと坂井さんが「夏の庭」を読まれたときの想いの名残り(表れ)なのだ。私はそう思っている。


(おわり)