「止まっていた時計」〜再び歌へ、その決意と悲しみ(3)

ここで、アルバムではなく個別の楽曲としての「止まっていた時計が今動き出した」のポイントとなる部分の意味を考えてみる。

この歌が難しいのは、ひとつには「止まっていた時計が今動き出した」ことと、「君」とのつながりが見えにくいことにあると思う。私はそのつながりに気付かず、「君」のことが唐突に挿入された感じがして、つっかえていたのだ。
(冒頭の「♪また巡り会う春を・・・運命を感じている」の部分は最後に触れる。)


♪此処には過去も未来もない 今しかない
後戻りはできないし、先延ばしすることもできない。今やるしかない。何という切迫感だろう。正直に言って、初めて聴いた時、(当時はまだ闘病の事実は明かされていなかったが)なぜ坂井泉水さんはこんなにも生き急いでおられるのかと驚いた。しかし、今では生への切迫した感情というより、船上ライブで坂井さんがおっしゃった「一期一会」という言葉に通じる、二度とない「今」の重さを見つめる生への覚悟を示すものだと考えている。
ここには「今しかない」。今やらなくていつやるのか。凄まじいまでの迫力と使命感がある。


「過去も未来もない」は、それだけを見れば過去と未来の意味を否定しているかのようにも取れる(私自身はそうした「時間論」に魅力も感じるが〜たとえばこの日記でも触れたことがある真木悠介「時間の比較社会学」は、世界には過去や未来という時間意識を持たない人々が居ることを教えてくれる〜)。
しかし、文脈からその解釈は無理である。というのは、ここではその後に
♪まわり道も意味のある修行(おしえ)と気付く日が来る
♪前途ある未来に…
とあるからだ。つまり、過去は否定の対象ではなく、過去に支えられて現在があり、未来もつながっているのだという捉え方をされていることがわかる。

坂井さんの言われた「温故知新という気持ち」は、過去があって初めてかけがえのない現在がある、という過去への慈しみの気持ちではないだろうか。これはアルバムについて述べられた言葉ではあるけれども、一番当てはまるのはこの曲だと思う(サウンド的にも、この曲はZARDの出発点となった「Good-bye my loneliness」を彷彿とさせるものがある。)。


私の考えでは、作品理解の核心は次の部分にある。「止まっていた時計」という言葉が初めて出てくるところだ。


♪君の胸の中に 何も持たずに今 飛び込んでいけるなら ねえ行きたいよ どこか果てまで
悲しい雨が心を濡らしてゆく 止まっていた時計が今動き出すから


「君の胸の中に飛び込んで行きたい」のだが、それはできない。なぜなら、「止まっていた時計が今動き出すから」だと。このフレーズの最後の「から」という接続詞が「止まっていた時計が今動き出した」ことと「君」とのつながりを示すキーなのである。


「止まっていた時計」であったこれまでの自分が、苦しみの末に新たな方向性を見出し(ZARD第2章)、歌い続けるというアーティストとしての使命を自覚された(そのひとつの具体化がライブだった)。しかし、それは「君」との愛を諦めなければならないことを意味していた。
なぜなら、時計は今動き出さなければならないから。


もちろん、あくまで歌詞の上でのことなのだが、私はこれがこの歌に込められた坂井さんのメッセージだと思う。


冒頭のフレーズに戻ろう。
♪また巡り会う春を待っている 時よつづれ
そして人は皆わずかな誇りと運命を感じている


様々な解釈があり得ると思うが、私はこんな風に考えている。
(「今」のこの決意は未来へとつながっているから、)君ときっと将来「また巡り会う春」が来る。
辛い運命だけれど、誇りをもって決意したことだから・・・。


「止まっていた時計が今動き出した」。その志の高さと、失ったものへの痛切な思い。こんな歌を歌えるのは坂井さんだけではないかとさえ思う。本当に凄い歌だ。


(おわり)