夏を待つセイル(帆)のように (3)

(昨日のつづき)

「夏を待つセイル(帆)のように」で表現されているものは、(私の理解からすれば)愛と呼ぶにはちょっと無理な気がする。初期の恋か、恋の前段階あたりだろう。それなら、「いつかは離れていくことを予感している」主人公は、自分の恋は愛に育たないことを予感しているということになるのかな。


そう考えて、今書いているこのコメントもそうした趣旨でまとめるつもりだった。しかし、どうも腑に落ちない。モヤモヤしながら書き進めた。日野原先生の本の影響で「恋」か「愛」かという切り口にこだわっていたけど、やっぱり違うんじゃないか・・・。


と思ったときにはもうアップしてしまった後だった(笑)。まー、日野原先生の「テンダー・ラブ」は、愛というものを考える上で非常に良い本だし、削除せず、このまま進むことにしよう。



「違うんじゃないか」とはっきり思ったのは、WHAT's IN?の坂井さんのコメントを改めて読み直したときのことだ。


「仲の良い人でも相手の見慣れぬ表情に、動揺するときがあると思うんですよ。きっと、この詞の主人公は、いつかは離れていくことを予感しているのではないでしょうか?」


そうか・・・。このコメントの前半部分から、次のフレーズが浮かんできた。

♪自分の知らない君を見て 一瞬怖くなる

♪自分の気持ちに真っ正直でいたいけど
それで人を傷つけることもあるね


もちろんこのフレーズの存在は知っていたのだが、曲調の明るさから、期待、夢などのブライト・サイドばかりに目が行って、これらのフレーズがそこまで(いつかは離れていくというところまで)重いとは思わなかった。こうなると、一見爽やかで明るく予定調和的に見えていた歌全体が全く違った姿に見えてくる。


大人になって行く君に気付いてハッとする瞬間。それは眩しくもあり、君を失うかも知れないという不安でもある。成長とは自立することなのだ。

ときには周りを傷つけてしまう純粋さ。でも、成長でそれを失って丸くなってしまったら・・・という、純粋さと成熟との葛藤。


ZARDの場合、明るいだけの曲というのは少なくて、どこかに陰が潜んでいることが多いのだが、この作品も決して爽やかで明るいだけの歌じゃない。君を失い、純粋さを失う、成長の痛みのような感覚がある。そう思って聴くと、


♪夏を待つセイルのように
君のことを ずーっと...
ずっとずっと思っているよ*1

という思いの深さも、これまでと違って、けな気で切なく響いてくる気がした。

さすが坂井泉水ワールドだなあ・・・。


日野原先生の本のおかげ?で横道にそれて時間を食ってしまった。それはなかなか充実した楽しい横道だったけどね(笑)。

(おわり)

*1:このフレーズは2回出てくるが、...の場所が微妙に違うのが面白い。「ずっと抱きしめていたい」の方も同じく。